彷徨える舌/往路と復路

『そうだね、確かに往復切符は一見お得だ。でも君は何故そうなのか、考えたことがあるかい?売る側には往復切符を安く売るだけのメリットがある。そう、少しでも早く売り上げを確定できるってことは、とても大きいんだ。じゃあ買う側はどうだろう?本当に得をしているんだろうか?神ならぬ人には予期しえない不確かな未来を傲慢にも確定している、とは考えられないかい?失なっているもの、それは帰りの切符を未確定にしておく、という自由なんだ。もっと重要な点もあるよ。辛い長時間の移動中、「帰りも同じ」と考えなきゃあいけないんだ。人間ってのは未来を考える能力を持つ素晴しい生物だけど、同時に予定された苦痛を想像することで実際に苦痛を感じもするんだよ』


しかし、美しい妻にはこの完璧な考察が通用しないのだった。わたしはいやいや往復切符を買い、田舎へと急いだ。


葬儀が続いた。葬儀というものは現実を受けいれるための儀式だと思う。田舎から遠く離れて暮していると、親戚とはどうしても関係が薄くなる。めったに会えないということと、二度と会えないということの違いは、なかなかに大きいのだが、しかし、簡単には受けいれられないものだ。なれない正座による足の痛みとしびれに耐えながら、たあいのないことを考えていた。


亡くなった叔父には、随分と良くしてもらったものだ。わたしには完璧な叔父だった。わたしがクラシックにかろうじて興味を持っているのは、叔父の影響もあった。だが、叔父が一人で仕事をしていたときに何を考えていたか、わたしには分からない。想像にすぎないが、さまざまな思いを抱えていただろう、と思う。叔父が見せてくれていたのは、いい面だけであった。何の見返りもなく(ああ、何の恩返しもできなかった)、他者とっての良い存在でいつづける、ということ。いつかわたしも、だれかのためにそのような存在になれるだろうか?


運ばれる棺にはいっているのは、もはや、生きてはいないただの肉体だ。人が亡くなったということの理解は、やはり少しずつ進むものだ。葬儀の場に、何も分からない赤子や幼い子供がいるのはとてもいい。